『WHITE LIE Ver1』 「………なんでだろうなぁ…」 カルテを見ても鳴海の手の傷は完治している。 サザンクロス病院のスタッフが優秀なことはよく知っているし、鳴海の見立てでも問題なく、動くはずなのだ。 それなのにメスを握ると、鳴海の腕は震えた。 最初は小刻みに。 それでも無理にメスを動かそうとすれば震えは大きくなり、気づかぬ内にメスを投げ捨ててしまう。 精神的問題ではないかともちろんそちらのケアも受けているが、一向によくなる気配はなかった。 本人が自覚できないほどの精神的不安、というのはよくあるけれど鳴海の問題については少し当てはまらない気がした。 鳴海は受け止めてしまっているからだ。 外科のエースとしての道は真っ暗になってしまった。 けれど鳴海の才能はそれだけではない。 病理医としても元々優秀と名高かった。 病理医への未練はすでにとうになくしてあり、外科への思いの方が強いのだけれど動かない腕を前にそんなことは言っていられないだろう。 多分、また病理医へ戻ればその道が楽しくなるだろうことは予想が付いている。 外科にだって半ば無理矢理転向させられたのだ。 病理医志望だったことを考えれば、きっと夢中になれる。 けれど。 「……いないんだよね、あの人が」 鳴海はデスクに置かれたカルテに爪を立て、じわじわと握りしめながらぽつりと呟いた。 流れるように書かれている英字が醜く歪んでいく。 ぐしゃぐしゃと音を立てながら握りつぶされていくカルテは、そのまま今の鳴海の感情を表していた。 「こっちの道にあの人は、付き合ってくれないんだよね…」 『ぽっかり開いた真っ白な底、貴方とふたり』 「……おっかしいなぁ…、なんか、違うんだけど…」 ツン、と頬を突いて鳴海は静かにため息を吐いた。 元々無駄な脂肪なんて付いてないけれど、一層痩せたような気がする肉の薄い頬を何度か指で突いて、目を瞑った。 『リョウはもう、メスを握れない』 耳にこびりついている教授の声。 自分で何度も確認したし、カルテだってそれこそ何度も見たけれど、 ああして他人に告げられるとまた違うものがあった。 握れないのか。 完治しているのに、握れない。 ぽっかりと空いた胸の裡はきっと喪失感だったんだろう。 あれだけの激情に襲われていたはずなのに鳴海はなんだかどうでもよくなって、 隣に座る桐生を振り向いた。 桐生は、なんの言葉も発さずにただ、静かに其処にいた。 教授が何度も呼びかけているが桐生は微動だにしない。 鳴海は背筋がゾッとするのと同時に急いで桐生の肩に手をかけて、自分を振り向かせる。 焦点の合わなかった桐生の目が、鳴海を映し出したとき。 鳴海は生まれて初めて、その音を聞いた。 鳴海を認めて、夢から醒めるように桐生の瞳はみるみると透き通っていって。 鳴海は。 生まれて初めて。 ひとの心が潰れる音を、聴いた。 『WHITE LIE ver2』 「―――…また、こんなとこで寝て」 部屋に帰ってきた鳴海を待っていたのは、リビングのソファで眠る桐生の姿だった。 背もたれを枕にして、静かな寝息を立てている。 鳴海はとりあえずと上着を脱いでから、桐生の片手に収まったままの本を抜き取ってテーブルにと置いた。 その一連の動作にも桐生は起きる気配を見せず眠り続けている。 職業柄、どんな場所でも少しでも時間があれば熟睡出来る桐生は一旦眠るとちょっとやそっとのことでは目を覚まさない。 病院であれば急患、の一言ですぐに起きるがここは自宅だ。 その上、近々入院することもあって前線からは退いている。 普段なら人が来た気配だけでも起きることが出来るのにと思いながら、鳴海は膝を付いて桐生の寝顔を眺めた。 疲れているとは思う。 元々不自由な視界を酷使していたし、その上でのチームバチスタの連続術死は彼の精神を消耗しつくした。 けれどあの事件があったおかげ(と思うのは甚だ癪ではあるが)で、鳴海と桐生の関係は進展を見せた。 別に進展を見せなくてもあの関係で鳴海は充分満足していたが、桐生が穏やかな笑みを浮かべることが増えたのは、まぁ嬉しい。 出会った当初のときのように笑うことはまだあまりないけれど、あの事件以降硬い表情しか見せなくなった (対患者以外。流石医療に関してはミスター・パーフェクト。無意識にでも患者にとって落ち着く状態を生み出せる) ことを考えれば相当な進展だろう。 その上、今日ミヒャエルから聞いた話もある。 鳴海はミヒャエルの話を思い浮かべながら、ふと桐生の手を掴んだ。 細く繊細な指。 骨が綺麗に浮き出る手首に、日にあまり焼けない肌は青白く血管が走っているのが見える。 この手も、メスを握ることを拒否していただなんて。 「―――…、本当。人の気も知らないで気持ちよさそうなんだから」 試しにぺろりと目の前にある唇を舐めてみるが、桐生はやはり起きる気配を見せなかった。 変わらず落ち着いた寝息を立てる桐生に、どこまでやれば起きるだろうかと鳴海はふとそんな思いつきを実行した。 ソファに眠っている桐生の身体を跨いで、まだ体重はかけずに音を立てて口付ける。 小さく何度か口付けていれば、桐生の眉間に皺が寄るがそれでもまだ瞼を開ける気配はない。 これは少し問題ではないかと思いながらも鳴海は、桐生が小さく呻いた隙にするりとその咥内に舌を忍び込ませた。 眠っているせいかいつもより暖かい咥内を、我が物顔で蹂する。 綺麗な歯並びを確かめながら柔らかな内頬を突いては、深く口付けていく。 突然の侵入者を無意識に排除しようと動いた舌を絡め取って甘く噛んだ。 ぴくりと身動きする身体を押さえながら、尚も深く唇を合わせて柔らかな感覚を楽しむ。 徐々に苦しそうに浅くなっていく呼吸を飲み込んで、鳴海はそっとシャツのボタンを外しはじめた。 水無月浬サイドサンプル漫画+小説。 |
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